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「ほんとうのつながり」は普段の暮らしでこそ、いきてくる

スタッフの小林です。
今回の授業では松本市にある東昌寺のご住職・飯島惠道さんを講師にお迎えしました。「え?宗教の授業?」と少なからず誤解をされることもありましたが、その中身はぼくらの日常生活の「基盤」に触れることができた授業でした。

「しののい まちの教室」スタッフが熱演した「模擬葬儀」

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「みなさんは、自分のお葬式のリハーサルをしたことはありますか?」という飯島先生の一言からはじまったこの授業。そんな経験、そうそうないですよね。今回はぼくらスタッフが総出で、ある架空の家族が直面した葬儀のシーンを一幕の劇として演じました。
あらすじはこうです。

篠たくと は地元国立大学に通い、大学のオーケストラにも所属する音楽が大好きな青年。
しかし、ある日突然、帰らぬ人となってしまう。弔問に訪れたたくとの親友から、実は親友3人の間で交わしていたリビングウィル(生前に発効される遺書)があり、「自分以外の人にもしものことがあった時には、その友人の家族に責任をもってそれを届けることにしていた」とも告げられる。そのリビングウィルには「無宗教・音楽葬で送ってほしい」と書かれていた。リビングウィルの存在を知らされていなかった家族は動揺する。たくとの遺志に沿った葬儀を行うか、従来どおりの葬儀をおこなうか・・・。たくとが希望した形の「お・み・お・く・り」は、果たして実現するのだろうか?

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—— 家族、葬儀社、菩提寺の住職、たくとのオーケストラの先輩である医師など巻き込み、すぐには解決しない問題に葛藤や苦悩。最終的には本人の遺志を尊重したカタチの葬儀が執り行うことになりました。
まずはこうした模擬葬儀を通して、誰かの死に接する時には「いくつもの立場がある」ということを受講者のみなさんと共有しました。

誰の視点からみた「死」なのか。
 講義の中で登場した「人称別の死」というキーワード。つまり、一人称=わたし自身、二人称=わたしとあなた(家族・夫婦・親族などのごく親しい間柄)、三人称=わたしと彼/彼女(友人・知人・初対面の他人などの第三者の間柄)という3つの立場のことです。ぼくもこの授業の告知の時に「誰かの死に際した時……」というフレーズを使っていたのですが「そういえば、自分が送られる立場にもなるんだ」と当たり前だけど、忘れてしまいがちなことを改めて認識。
 模擬葬儀を演じたキャストを交えながら、3つのグループに別れてそれぞれの立場からの死について話し合いました。「自分の好みだけで葬儀を決めていいのか?」「葬儀は遺された人が納得するものにしないと」「第三者なのに不思議な責任感に動かされた時がある」など、各々の経験を交えながら話し合いは進み、なかなか止まりません!

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見過ごせない三人称の死 ——
 各チームからの発表を経て、飯島先生は「三人称の親密圏」というものに着目されました。震災の例を出しながら、見ず知らずの人のことでも心は傷つき、深い哀しみに襲われたあの時。家族でなくとも悲しみに耳を傾けてくれる人の存在がいてくれること、その人達と親密な関係を築きながら暮らしていくこと。自分の遺志を託すことができ、また一方で悲しみを語り合い、哀しみを見守れるまち。 
 この授業を通して、図らずもスタッフ同士でそれぞれの喪の経験やどんな葬儀で送ってほしいかとポツリポツリと話しだすことがよくありました。思い返せば、劇中でリビングウィルを託し合った友人たちのように。何かがあったときだけの一時的なものではなく、普段から見えないところで機能していくのが「ほんとうのつながり」なのかもしれませんね。

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(しののい まちの教室スタッフ 小林稜治)

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飯島惠道(東昌寺 住職/NPO法人「信州地域社会フォーラム」理事)
長野県松本市出身。信大医療短大、愛知専門尼僧堂、駒沢大学大学院修士課程終了後、諏訪中央病院にて看護師として勤務。最終勤務病棟は緩和ケア病棟。2000年より東昌寺にて法務に従事。2011年より住職となる。